延暦19年(西暦800年)生誕 - 貞観2年(西暦860年)2月25日没 真言宗の僧侶で有り、真言宗の開祖 弘法大師空海の高弟の一人です。
一般的には、紀僧正、高雄僧正、柿本僧正と称されています。
15歳で得度し、その才気の高さから空海上人の弟真然と共に弟子となり、わずか25歳という若さで金剛界と胎蔵界の両部の灌頂を受けられました。
弘法大師入定後、その足跡を追うように当時の中国への留学を試みるが、嵐で船が難破しましたが、奇跡的に帰朝されることとなりました。
無事、本国に戻り、京都神護寺で12年間籠もり、承和7年(840年)12月に同寺の住職となり神護寺の護持にあたられました。
斉衝3年(西暦856年)に文德天皇より僧正の位を下賜されるが、師の空海より僧位が上になることをよしとせず、僧正の位を空海に譲り、自身は辞退されました。
天皇は、真済上人の師を慕う思いの強さに打たれ感銘し、空海上人に大僧正位を贈り、真済上人に改めて僧正位を授けられました。
天安2年(858年)に現役を退き隠遁し、柿本山 影現寺 を創建されました。
文徳天皇の没後,真済上人は奥羽を巡錫し、貞観元年(西暦859年)出羽国(山形県)置賜郡小松の山麓に精舎を建て、松光山長岡寺大光院を開創。翌年この地に入定されました。
(住職 大光院参拝、「真済上人1150年遠忌法要」金子貴一公式ブログ)
なお、影現寺の近傍の字阿米の田畑の一角にも、真済上人の墳墓として伝えられる場所があります。影現寺に所蔵する影現寺縁起絵巻のなかにもその存在を伝えていますが、何れの時代に祀られるようになったかは不明です。
真済上人の最も輝かしい功績の一つとして「遍照発揮性霊集」の編纂があります。
空海上人の詩、碑銘、上表文、啓、願文などを集成したもので、10巻からなります。
これにより、超人弘法大師としての人間離れした伝記だけではなく、血の通った人間としての空海上人の息遣いや思いが現在に伝わる大切な要素になっています。
左手に宝瓶を持ち、右手に錫杖を持ち岩座に立ち、やわらかな表情に、化仏を高く大きく積み上げて豊かな観音像となっています。
一説によると、柿本人麿大明神の本地垂迹佛(神と仏は表裏一体であるという考え方)が十一面観音菩薩といわれており、おそらく開祖である真済上人が密教の仏として柿本人麿を拝むために勧請したのではないかと思われます。
地元では「ぶどう柿」とも呼ばれ親しまれています。兵庫県明石市人丸町の「柿本神社」にも同樹齢と思われる筆柿がある。10~11月にかけて長さ1.5~2.5cm ほどの橙色から黒紫色のかわいい実をつけます。