影現寺についてアイコン

由緒
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柿本山 影現寺は、済衝2年(西暦858年)に弘法大師空海の直弟子である真済上人によって、奈良県葛城市に開かれた高野山真言宗の寺院です。元来この地には、影現寺の創建前から柿本人麻呂を祀る柿本神社があり、一説では真済上人は柿本人麻呂と又従兄弟の関係にあると述べられております。苦難の人生を歩んで来たと思われる柿本人麻呂を弔うため、また、神格化された柿本人麻呂を祀る柿本神社を護る神宮寺として建立されました。
当山では開創以来、数多くの高僧を輩出し、中には梵字悉曇の慈雲流で高僧高名な慈雲尊者も、当寺院に逗留し修行をしたという記録と供に、慈雲尊者自作の軸も伝わっております。
現在当山には本堂、薬医門、鐘楼など有するところですが、本堂は17世紀後半に再建されたものです。薬医門、鐘楼も幾多の天災や、火災による焼失などを経ることになりましたが、その都度、地元の信者様方の温かい支えにより、再建し現在に至っております。影現寺はまさに、歴代住職大徳の御精進と、長年にわたる地元の方々の温かい願いで現在に至るまで連綿と法脈を保ち続けた、信仰の厚い寺院であります。寺名の影現寺の「影現」の意味するところは、仏・菩薩が衆生を済度するために来臨されること指すと、お経に記されています。
開祖 真済上人
延暦19年(西暦800年)生誕 - 貞観2年(西暦860年)2月25日没
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真言宗の僧侶であり、真言宗の開祖 弘法大師空海の高弟の一人で、一般的には「紀僧正」「高雄僧正」「柿本僧正」と称されています。15歳で得度し、その才気の高さから空海上人の弟真然と共に弟子となり、わずか25歳という若さで金剛界と胎蔵界の両部の灌頂を受けられました。弘法大師入定後、当時の中国への留学を試みるも、嵐で船が難破しましたが奇跡的に帰朝、その後京都神護寺で12年間籠もり、承和7年(840年)12月に同寺の住職となり神護寺の護持にあたられました。
斉衝3年(西暦856年)に文徳天皇より僧正の位を下賜されるも、師の空海より僧位が上になることをよしとせず、僧正の位を空海に譲り、自身は辞退されました。真済上人の師を慕う思いの強さに感銘した天皇は、空海上人に大僧正位を贈り、真済上人に改めて僧正位を授けられたのです。
そうして真済上人は、天安2年(858年)に現役を退き隠遁し、柿本山影現寺を創建されました。
なお、影現寺の近傍の字阿米の田畑の一角にも、真済上人の墳墓として伝えられる場所があります。影現寺に所蔵する影現寺縁起絵巻のなかにもその存在を伝えていますが、何れの時代に祀られるようになったかは不明です。
真済上人の最も輝かしい功績の一つとして、空海上人の詩・碑銘・上表文・啓・願文などを集成した「遍照発揮性霊集」の編纂があります。これにより、超人弘法大師としての人間離れした伝記だけではなく、血の通った人間としての空海上人の息遣いや思いが、現在に伝わる大切な要素になっているのです。
御祭神 柿本人麻呂
白雉11年(西暦660年)生誕 - 神亀元年(西暦724年)3月18日没
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柿本神社の周辺地域は、持統・文武朝(687〜707年)時代に宮廷歌人で「万葉集」最高の歌人と賞された柿本人麻呂が持統天皇から領地を賜って居住した所という言い伝えがあり、神社の社伝には、石見国で死去した人麻呂を、宝亀元年 (770年 ) この地に改葬し、その傍らに「人麻呂堂」と呼ばれた神社を建立したと伝えられています。
拝殿の南側にあります「柿本太夫人麻呂之墓」と刻まれた石碑は、江戸時代播州明石から転封となった、大和郡山藩主松平信之が天和元年(1681年)に建てたものです。
また人麻呂の又従兄弟にあたる、真済上人が彫ったとされた人麻呂像は木造で、「はめ込み式の首は、歌人であることからか、夜中に月の出る方向に向く」との言い伝えがあります。
真済上人が人麻呂を尊び、前述の木像を祀って歌会を催していた記録が当山に伝わっております。その際詠まれた歌が、長い年月を経た昭和の初めごろまで、地元の方々によって歌が奉納されていました。さらに当山と柿本神社では、人麻呂の命日とされる 4月18日に毎年「ちんぽんかんぽん祭」を行い、人麻呂を供養しています。
御本尊 秘仏 十一面観音菩薩像
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左手に宝瓶を持ち、右手に錫杖を持ち岩座に立ち、やわらかな表情に、化仏を高く大きく積み上げて豊かな観音像となっています。一説によると、柿本人麻呂大明神の本地垂迹佛(神と仏は表裏一体であるという考え方)が十一面観音菩薩といわれており、おそらく開祖である真済上人が密教の仏として柿本人麻呂を拝むために勧請したのではないかと思われます。